無礼講は存在するのか

「無礼講」という言葉があります。それは普段は階級や年齢などで差がついてしまっている人との関係を、お酒のチカラを借りて乗り越え、少しでも交流しようとする考え方です。

ただ、人によっては「今日は無礼講だから」と言ってみたところで、実際は階級間のギャップや年齢間のギャップを埋めることなどはできないという場合もあります。ひどいのは、「無礼講」だからと言ってはいるものの実際はそのようなことはなく、本当に無礼に感じた場合に叱りつける人が存在したり、自分の立場、権威を脱ぎ捨てようとしなかったりする人もいるということです。「無礼講だからね」と言われたところで、それが本当のところどうなのかということはケースによって違うものです。

ただ、人と人の関係はいくらお酒のチカラを頼ったとしても、「本当の無礼講」になどはなるわけがなく、「無礼講だ」と口にした「偉い人」の心の内側では、「普段自分のことを怖がっているような人も、気さくに自分に接してほしい」という願望の現れなのです。ですから、本当に「無礼」を働いていいわけではなく、話していいこと、やっていいこと、とっていい「態度」というものは決まっているということです。いくら上司が無礼講だといったところで、それを鵜呑みにするわけにはいけません。

かといって杓子定規に、会社にいるときのように、律儀に接することも相手の期待に沿ったものではないのです。これは観察するしかないのですが、その相手、たとえば上司や取引先が「どのような人」、「どのような若手」を好むのかということを見ぬくのが大切で、どのような人、どのような相手を側に置きたがっているのかを探るチャンスでもあります。いくら仕事であっても、フィーリングが合う人、そうではない人というものが存在するものです。同じ仕事を進めるのであれば、関わる人が気の合う人がいいということは当然です。同僚達と気さくになんでも話せるような立場であればいいのですが、立場が確立してくるとそういうわけにもいかなくなるのが社会です。ですから、ある程度の立場の人はそのような宴席を儲けて自分とウマが合う下の年代を探しているのかもしれません。

「無礼講」という言葉は立場が上の人が使う言葉であり、自分の懐の深さを示すための言葉でもあります。自分の懐がいかに深いものなのか、下の人間に示すためのものではあるのですが、それは「タテマエ」でもあるのです。ですから、「今日は無礼講だ」と
鵜呑みにして本当に友達のように接してしまうと、それが仇となって普段の仕事に差し障りが出てしまうこともあるでしょう。相手が人事権を持つような相手であれば、なおさらです。

そのようなことにならないためには、「相手が望んでいる自分」を見つけ出すしかないのです。「無礼講」と口にした相手が、こちらにどのようなことを望むのかということです。どのようなスタンスで接して欲しいと考えているのかに、気がつくことが大切でしょう。