宴会で苦手な人と接する
宴会にはさまざまな人が参加します。会社の宴会であれば、誘われていたならば誰でもその宴会に参加することができるのです。人間関係というものは難しいもので、苦手な人もいれば親しく接している人もいるものです。
「社会」というものは人がたくさん集まって成立しているものです。人がたくさん集まっているということは、それだけさまざまな考えがあり、それだけさまざまな価値観があるということです。こと「好み」という観点に立ってみれば、実にさまざまなのです。そのような「いろいろな人」が、等しい権利を持っている世界、それが私たちが暮らしている「人間社会」です。コミュニケーションと、「考える」ということを中心に成り立っているのが私たちの社会です。
ですからさまざまな人がいて当然であり、ひとりの人が自分の価値観を曲げないままその人とすべてを共有するなどということは簡単にできるようなことではないということです。どれだけハナシをしてもウマが合わないということもありますし、生理的に受け付けないということも当然考えられます。そのような相手は「いくらでもいる」ということなのです。
それでも私たちは社会に参画する必要があるのです。さまざまな人と接しながら、その人がどのような人物であっても交流する必要があるのです。それが私たちの背負う宿命であり、逃げられないものであるということです。そこから逃げるということは、「社会から逃げる」ということに等しいのです。生きるためには「社会に参画する」、つまり「働く」ということが絶対に必要ですから、この「人間関係」から逃げるということは人生を諦めることと等しいわけです。どのような働き方、どのような仕事をしていても人との関わりは必須です。人がいて、自分がいて、それぞれ違う価値観、違う考え方を持っているのに、それでも何か共通の事柄を共に乗り越える必要があるということが、社会の基本です。
たとえ相手が気に入らなくても、自分とその人の「責任」だけは果たす必要があるということ、その責任を果たすためには「好き嫌い」など言っていられるようなことはないということ。それをしっかりと考える必要があるのです。
ですから、「宴会で苦手な人と接しなければいけない。仕事でもないのに」というのは「ナンセンス」な気持ちです。まずは相手のことをもっと知ることです。そのうえでやはり苦手なのか、それとも新しい側面を見つけてハナシができるようになるのか、人として、社会人として、考えなければいけない部分があるはずです。ただ「苦手だから避ける」ということでは、そのとき以上のコミュニケーションはとれないのです。そうではなく、その人と自分の共通項は本当にないのか、ないのであれば新しく作ることはできないか、そのようなことを考えるのが「本来の社会人」ということです。学生諸氏も、やがてはそのような社会に進出するのですから、「苦手な人を避ける」ということだけを考えるのはやめましょう。