宴会の司会をまかされてしまった
大規模な宴会、会社全体で行うような宴会では、実際の宴席を「仕切る人」が必要である場合もあります。「仕切る」というのはその「場」で、会が始まる際、誰かの「言葉」をもらう際、そして会を閉じる際などに「その場」を調整するという役割です。
基本的に宴会ではみんなでワイワイと楽しくやればいいのです。楽しく会話して、日ごろ仕事中には聞けないような楽しい会話を進めればいいのです。ただ、どうしても会の規模が大きくなると、話しがしやすい人が少人数で集まって、いつもの職場の光景と同じような集まりにしかならないような場合もあります。
その宴会の目的がなんなのかにも拠るとは思うのですが、その会が「交流」を意図したものであるのであれば、「決まった人としかコミュニケーションをとってくれない」という状況は宴会の目的から逸れているということになります。その宴会が会社の予算で開かれているような場合はなおさらです。会社の意図に沿った成果を出すのがその宴会を企画した人の責任にもなってしまうのです。
会社の予算をやりくりして宴会を行うということは、それを企画する人にとってはもはや「仕事」です。会社が予算を出すということは、それは「その後」に、社員たちにより良い仕事をしてもらうための「投資」であるともいえます。投資をするということは、投下した費用に見合う分だけの「見返り」がなければいけません。そのような「見返り」を求められているのであれば、その宴会を企画する幹事、そしてその会を取り仕切る人はその宴会に対して会社が求めている「結果」を生み出すことが必要なのです。そのような結果を出すためには、そのようにその「会」全体を仕組む必要があるということで、それは簡単なことではありません。
「司会」、「仕切る」ということもまた、社会人にとっては必要なスキルである場合が多いのです。チームを牽引する、組織を牽引する、それは「役割」として求められることでもあります。会社のなかでは「上司」と「部下」という関係が存在するものですが、それはある意味「役割」に置き換えることができます。会社を一歩出ればそれはただの「人と人」であるということです。ですから、会社のなかで立場がどうであれ、人としての尊厳はなくなってはいけないものです。部下は上司の奴隷ではないのですから、「人の気分を害する」ことなく人を動かすというチカラが社会では必要なのです。
そのようなスキルが鍛えられるのが「宴会の司会」であるともいえます。年上の人にも、年下の人にも、すべての人に対してフェアーに接することができ、かつその場を動かすことができるスキルです。
このように記してしまうと大げさですが、「偉くなれば自由にできる」と考えている人ほど勘違いしがちです。偉くなっても人に対する態度を変えることなく、「責任」としてその「役割」をまっとうできるということが大切です。そのトレーニングとして、「司会」はうってつけなのです。