宴会が廃れつつある
仕事は「人」が行うものです。すべての仕事は「誰か」がその人の責任において進めたもので、それによってその人は「社会」に参画しているということです。
そのような「人の責任」において果たされた「仕事」は、それぞれが関わりあって「社会」を回転させているものです。社会が回転するということは、経済が循環するということです。誰かの「仕事」を誰かが受けて、また自分の仕事を行う。そして仕事が仕事を呼び、その仕事が経済を回転させるのです。そのような「連携」そのものが「社会」です。そのような「連携」で、人と人が関わっているということになります。
ただ、そこには「働く者」としての「責任」があり、それを果たすということの連鎖でしかなく、実際にコミュニケーションがとれているかというとそういうわけではなかったりします。それでも「仕事」としては流れていくので、なんら支障はありません。ただ、「それだけ」ではどうしても納得できないという人も中にはいます。
それだけでは納得できないから「別のコミュニケーション」でそれを埋めようとしたのが「飲み会」です。ただ、このコミュニケーションは「仕事ではない」という考えもあり、それは「事実」です。あくまでも「有志」の集まり、そしてあくまでも「自己負担」の集まりであるということが大前提になっています。少し前であれば、「飲み会の席で鍛えてもらう」とい考えが成立していたものです。「働く」ということ、「稼ぐ」ということ、それも「組織」で稼ぐということはとてもむずかしいことです。どのような会社でも儲けることができるわけではなくて、組織としての「利潤」を生み出すのはとても難しいことでもあったのです。そのために「人を鍛える」ということが組織として大切なことではあるのですが、精神的に鍛える場としての「飲み会」が、「半仕事」として存在していたのです。
それはある意味「本来の自分をさらけ出す場」ではなく、「本当に相手のことを知るための場」でもなく、ほとんど「仕事」として存在していた飲み会でした。ですが、それには「給与」は当然ながら出ません。それに意を唱え始めた世代が今の若い世代です。具体的には「30代から20代」の世代です。
「現代の飲み会離れ」というものはそのようなことから生じたことです。「本当に飲み会は必要か」というある意味リベラルな考えが蔓延しつつあるのが現代なのです。
「会社の飲み会など楽しくない」という考えが、すべてを取っ払った「社交の場」を奪いつつあるのです。労働時間に対する考え方、「ブラック企業」という考え方が一般的になってしまったことも要因としては考えられるでしょう。働く人は「守られるべき」という考えが、人を「半強制参加の飲み会」から遠ざけさせつつあるのです。それによって失われることもあれば、強制的にお酒を飲まされるということもなくなるため、救われる人もいるでしょう。それが「現代の飲み会の実態」の一側面でもあるのです。